2010/07
近代化学の祖 川本幸民君川 治


 
 川本幸民の生まれた所は武家屋敷のはずれで、近くには西方寺(開基は永禄年間)や妙三寺、正覚寺(共に天正年間の開基)など古いお寺がある。幸民の家の跡は「川本幸民生誕の地」の説明看板が立っているのみであった。
 三田御池脇の小高い丘に三田城址があるが、現在は三田小学校が建っており、小学校と御池の間に川本幸民の立派な顕彰碑が立っている。しかし、藩主九鬼家ゆかりのものは殆ど見当たらない。菩提寺心月院に歴代藩主の宗廟が残っているのみである。
 三田は六甲山の北側に位置する山里で、江戸時代後期は九鬼氏が代々統治した三田城の城下町であった。街を歩くとあちらこちらに古い建物やお寺が残っており、往時を偲ばせてくれる。今は北摂ニュータウンが開発されて大阪や神戸のベッドタウンとなっており、大阪からJR福知山線快速電車に乗ると約40分で三田に着く。
 川本幸民は代々三田藩医を勤める家の三男として1810年に生まれた。藩校造士館で頭角を現し、藩主の九鬼龍国に認められて江戸に遊学を命じられる。最初は蘭医足立無涯の塾に通うが、無涯は幸民の才能を大きく伸ばすため、伊東玄朴、戸塚静海と並ぶ当時の三大蘭学者の一人、坪井信道の塾に入門させた。塾生には緒方洪庵や杉田成卿、広瀬元恭など錚々たる人材が集まっていた。江戸遊学の費用は全て藩主九鬼隆国が支援したと言うから、その期待の大きさが窺える。
 やがて新進気鋭の蘭学者として認められ、藩の江戸詰め藩医となった。1835年、25歳で蘭学者・幕府天文方の松山藩医青地林宗の三女、秀子と結婚した。媒酌人は蘭学者伊東玄朴である。
 青地林宗はオランダの自然科学書を翻訳して、我が国最初の西洋物理学書と言われる「気海観瀾」を出版した。川本幸民も岳父と同様に勉学は物理化学方面に広がり、西洋の科学書を翻訳するのみでなく、その内容を実験・実践する科学者であった。 
 幸民の翻訳で有名なのは「化学新書」と「遠西奇器述」である。「化学新書」では元素の説明や原子の概念、質量保存の法則や気体反応の法則、化学当量や化学反応などが紹介されており、それまで使われていた「舎密」を初めて「化学」と翻訳した。
 「遠西奇器述」は蒸気機関の構造や原理、蒸気船、蒸気機関車、写真機など機械類の説明書である。川本幸民は「遠西奇器述」により、日本で最初に写真機を製作して銀板写真の撮影に成功した人で、自ら撮影した秀子夫人の写真が日本学士院に所蔵されているそうだ。「化学新書」の記載を見てビールを醸造した最初の日本人とも、マッチを初めて作った人とも言われている。
 さらに、岳父の翻訳した本「気海観瀾」を平易に解説した「気海観瀾広義」を、1851年から7年かけて出版した。この本は理学一般から始まり、天体・物性・運動・液体・気体・熱・電気・光などを5冊にまとめた、物理学全般にわたるものである。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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